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松江絵葉書の概要

絵葉書の始まり

絵葉書が大はやりである。といっても100年前の日本の話です。
明治6年から官製葉書はありましたが、1900年(明治33年)9月に民間会社が独自の葉書を印刷・発行することを国より許可され、明治末〜昭和初期にかけて、多くの種類の絵葉書が大量に発行されました。

日本中で事件・事故・天災・記念行事がある度に絵葉書が作られたのです。
これまでに日本だけでも数億種といわれています。

テレビ・ラジオが無く写真も高価な時代、重要なメディアであり複数芸術でもありました。
言うなれば、100年前のインターネット、Eメールだったのです。

 

松江の絵葉書

松江市では、明治40年頃から東宮殿下山陰行啓・鉄道開設などがあり盛んに絵葉書が発売されています。
小泉八雲が神々の国と称した松江は絵葉書も他都市と比べて種類が豊富です。

昔ながらの素朴な街路や風景、建物と町の様子、人々の風俗・世相など今ではほとんど忘れ去られたかつての松江へといざなってくれます。

絵葉書から見た明治・大正というのはどのような時代だったのか。
そこには西洋の近代化に追いつこうとする松江人の魂や気概がなんとなく伝わってくる気がします。

しかし、単に歴史的価値だけでなく古き良きものを現代人に思い出させ、未来への明確な提言もしているのです。

 

【当時の松江市での絵葉書販売店】
今岡善之助商店、大野絵葉書店、林聽天堂、文明堂、園山清商店、泉江文堂など

 

今岡商店の絵葉書

当店の前身である「今岡善之助商店」では好奇心旺盛な社風だったようで、明治33年頃より松江の絵葉書製造・販売の一翼を担っていました。

今回倉庫より大量に発見されました絵葉書・絵葉書用ガラス乾板・観光案内・鳥瞰図などの一部をご紹介します。

当時どれくらいの種類を発売したかは今でも調査中です。
発行元・時代は出来るだけ正確に記述してあります。

山陰新聞(明治27年7月1日) 山陰新聞(明治40年5月19日) 山陰新聞(明治41年11月16日)

 

絵葉書の時代区分の推定

■絵葉書表面(住所・宛名面)のデザインからの推定

[A] 明治33年(1900年)〜明治39年(1906年)の間。 住所氏名のみを記載。私製絵葉書の発行が認められた。
[B] 明治40年(1907年)〜大正6年(191年7)の間。表面下部の三分の一以内に通信文の記載が認められた。
[C] 大正7年(1918年)〜昭和7年(1932年)の間。表面下部の通信文記載が三分の一から二分の一に拡大された。
[D] 昭和8年(1933年)〜昭和19年(1944年)の間。表面上部記載の「きかは便郵」が「きがは便郵」に表示変更。
[E] 昭和20年(1945年)以降。表面上部記載の「きがは便郵」が左読み「郵便はがき」に表示変更された。

■裏面(写真・通信面) の内容からの推定

絵葉書裏面に印刷されている写真等から、建物や企業の看板、建築物の状態(工事中など)、人物の服装や髪型等から推定。ただし、厳密な推定は難しく、他の要素と併せて判定。

また、記念スタンプなどの印字年・書き込み年等が有る場合、使用年を推定しています。

■実際に使用された絵葉書の場合、切手や消印、記念スタンプ等からの推定

実際に使用された絵葉書は、使用された切手の絵柄・年代や切手の料金、押印された消印の日付などから、使用年代・使用年月日を推定。

 

※時代区分の推定にあたっては、絵葉書資料館( http://www.ehagaki.org/ )を参考に調査いたしました。
  ただし、上記の絵葉書表面デザインの例は今岡発行の絵葉書のものです。

 

絵葉書データ ガラス乾板について

写真乾板(しゃしんかんぱん、)とは広辞苑には「ガラスまたは合成樹脂などの透明な板に写真乳剤を塗布した感光材料」と説明されている。写真で用いられた感光材料の一種で、光に感光する銀塩の乳剤を無色透明のガラス板に塗布したものである。ガラス乾板、単に乾板ともいわれる。

1871年にイギリスの医師マドックスが発明し、箱入りで購入し好きな時に現像できるため短期間で写真湿板を押しのけて主流となった。しかしより便利に扱うことができて破損しにくい写真フィルムの登場によって戦後、一般市場からほぼ姿を消した。ただし天文学・医学などの専門的な分野では1990年代まで用いられていた。

現代でもガラス乾板の保存性のよさは見直されていいのではないでしょうか。デジタルデータというのは、案外保存が難しいのである。数十年単位、百年単位でデータを確実に保存するのは、そうたやすい仕事ではない。

今岡商店の倉庫より、絵葉書用のガラス乾板約150枚が発見され、現像してみました。
現在は乾板の時代ではありませんので現像も大変です。
そこで島根大学白潟サロンでは最新の技術を駆使して研究し、デジタルで現像できるように工夫しました。
今では各方面よりガラス乾板が持ち込まれデジタル化することにより、この地域の研究が飛躍的に進んでいます。

今岡のガラス乾板を実際の絵葉書と照合すると、ほとんどが明治末ごろと推定されます。乾板の入っていた箱は当時よく使用されていた輸入品の【イルフォード社】製の乾板です。100年間も経っているのに、比較的保存状態がよく細部まで鮮明でした。

更にサロンでのデジタル化により写真の細部まで拡大が可能となり、多くの情報が得られることとなりました。
ガラス乾板のほうがフィルムよりも保存には適します。若しこれがフィルムであればもたなかったでしょう。ガラス乾板であったということが、今これらの写真がよみがえったひとつの理由です。

ガラス乾板は高価なため、一度写したものをまた洗いなおして再利用するそうで残っているものが少なく貴重です。
誰が写真を取ったかは不明ですが、当店が絵葉書製作用に写真館かカメラマンに依頼したと推定されます。
当時写真機のレンズだけで現在の貨幣価値にすると100万以上したそうです。
写真を撮ってもらうより、肖像画を描いてもらうほうが安価でした。

松江で初めて写真機を手にしたのは、第9代藩主松平斉貴で、その藩主の命により、1863年苧町の森田礼造が長崎に遊学して写真術を学んだ。
帰国して1864年殿町にて写真店を開業した。明治になって、吾郷重次郎が末次本町。立花義満が天神境内にて開業した。立花は後に和多見町へ移転している。

明治41年鉄道開通時、松江の写真館は以下のようであった。
大野(殿町)/ 村田(殿町)/森田(殿町)/ 林(天神境内)/福井(雑賀町)/立花(新地(和田見))

 

絵葉書展示パネルの貸し出しに付いて

復刻絵葉書を拡大してパネルに仕立てたものございます。
    サイズ 約100X70センチ 20枚
各種催し物などに貸し出しいたしております。


(有)今岡ガクブチ店までお問い合わせください。
〒690−0064 島根県松江市天神町29
TEL:0852−21−2368 / FAX:0852−21−2397